行橋市中央1丁目のコスメイトゆくはしで特別展示会が開催されます。展示会名は「後藤又兵衛出奔と細川忠興展」です。

皆さんは後藤又兵衛という名前をご存知でしょうか?後藤又兵衛は戦国時代に槍の名手として天下に武名を轟かせた黒田長政・官兵衛親子の家臣です。前回の大河ドラマ「軍神官兵衛」はもちろんですが現在の大河ドラマ「真田丸」でもクライマックスの大阪夏の陣で大活躍します。

後藤又兵衛(後藤基次)は1560年播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれたとされています。後藤基国と神吉頼氏の娘なおの次男として生まれたそうです。後藤家は播磨守護大名・赤松家の一族で又兵衛が生まれた時は基国は三木城主・別所長治の家臣だったとそうです。三木城主・別所長治が織田信長と対立した際、後藤家は降伏し父・後藤基国は御着城主・小寺政職に仕えましたが又兵衛が8歳の時に病死し、又兵衛の叔父・藤岡九兵衛が黒田官兵衛に仕えていた縁により黒田家に預けられたそうです。一度は黒田家を離れますが後に黒田長政により帰還を許され豊前一揆、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いで功を立てて頭角を表し黒田家の有力な先鋒武将になったそうです。関ヶ原の戦いで勝利した徳川軍の武将として黒田長政が福岡藩に入ると後藤又兵衛は大隅城主として16000石を召し抱え隠岐守を名乗ったそうです。

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しかし黒田官兵衛が亡くなると主君・黒田長政と不仲になり1606年 黒田家から密かに出奔し隣国の細川忠興に接近します。細川忠興は後藤又兵衛を5000石の客分として召し抱えようとしますが、これが原因で黒田家との抗争まで発展します。江戸幕府の仲裁により抗争は終結しますが後藤又兵衛は細川家を離れ浪人となります。徳川家康による大阪城攻めが現実味を帯びると1614年豊臣秀頼の家臣・大野治長の招きを受けて大阪城に入城します。1615年5月6日 真田幸村と供に大阪城から討って出た後藤又兵衛は伊達政宗の家臣・片倉重長が率いる鉄砲隊に撃たれ生涯を閉じます。「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」「大阪城五人衆」「大阪城七将星」とも謳われた後藤又兵衛が黒田家を出奔した際、行橋市今井にある西福寺に逗留したそうで当時使用された漆塗りの膳なども現存しているそうです。

この「後藤又兵衛の出奔と細川忠興展」は6月17日(金)~12月18日(日)まで

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